オタク的にレディオヘッドのことを書きまくる。新譜『ムーンシェイプドプール』は、明らかにこれまでのレディオヘッドとは異なっている。「フリージャズを潜り抜けたあとの甘いムードミュージックby石川」。たしかに、個々の音(恍惚たるピアノのメロディ、声、ストリングス、打音、アンビエントな効果音)は、まるで手探りかつ即興的にかき集められたかのように、全体に散りばめられている。それらの曲は一貫した甘い雰囲気を持って、フェードアウトともインともつかぬじつに曖昧な調子で次の曲へと移り変わっていく。(例外があるとしたら一曲目だろう。なので一曲目は、なんというか浮いている。あれは文字通りアルバムのイントロダクションに過ぎない。)このアルバムにはフリージャズ的な現在肯定的(あるいは無責任?)な開けっぴろげな開放感と、その最終的な到達点としての甘いムードミュージック的雰囲気がある。

 

 これまで過去否定的だったレディオヘッドの、その気むずかしい性格を如実に表しているのが、過去のトムヨークのインタビューに対する発言である。「いつまでも曲を完成させることができない。手を加え続けてしまう。」彼が曲に手を加え続けてしまうのは、いま作ったメロディ、音が、次の瞬間には過去になってしまうからにほかならない。その作品に対する自己内省的かつ強迫神経症的な姿勢は、自身の過去のキャリアの否定にも繋がっていく。ある意味で彼らのディスコグラフィのなかで究極の過去否定と同時に絶大な新進性を示したのは『インレインボウズ』だったのではないか。『インレインボウズ』の細部まで極端に突き詰められ鮮明に研ぎすまされた音の数々は、前後左右に対して異様なまでに閉じられている。怒りや悲しみを基調とするレディオヘッドお得意の情動エネルギーを、異常に高いクオリティで研ぎすませたのが『インレインボウズ』だとしたら、『ムーンシェイプド』の「フリージャズ感」ひいては現在肯定的開放感というのは、明らかにこれまでのレディオヘッドに見られなかったものであり、それがロンドンコンテンポラリーオーケストラを導入した恍惚たる甘いムードミュージックへと到達するのは、もはや必然だといえる。あえて細部をぼかしたような音づくりには、極端な「完成」という強迫観念と自ら袂を分かつような―—ある意味「未完」という言葉を連想させるような―—、満ち足りた開き直り感がある。

 

 過去否定的であるというのは、その意識が過去へと絶えず引っ張られているからだということにほかならない。そういう意味では、ある側面でそのスタンスがこれまでのレディオヘッドの価値そのものだったとしても、彼らが本当の意味で過去を清算することはできなかったのではないか。この新譜は、レディオヘッドを規定し続けてきた強迫的なスタンスや呪いのような過去の曲の数々が、本当の意味で昇華された作品だと言える。それが彼らの近年のライブパフォーマンスの変化にも顕著に表れている。(開き直ったようにむかしの名曲をいっぱいやる。)そしてそういう意味では、このアルバムのラストを飾るのはやはり『true love waits』でなくてはならない。あの曲の原型?である弾き語りバージョンを聴いたことがある者なら、新譜に収められた『true love waits』を聴いたときに、ある種憑き物が落ちたような不思議な感覚に襲われたことだろう。(わからないが。)いまだ死ねずに徘徊する幽霊を供養するような意味合いにおいて、あのように仕上げられたtrue love waitsのメロディこそ、過去のtrue love waitsに対するたむけである。あの取り留めのないピアノのメロディで仕上げられ、どこか曖昧にぼやかされたようなtrue love waitsは、過去と現在に対して開かれ、そのすべてを包摂しようとする『ムーンシェイプドプール』のフィナーレにふさわしい。以上です。